こころ 夏目漱石 (新潮文庫)
1.先生と私
明治40年前後の避暑地鎌倉。私はそこへ学校(「私」は職業:教師)の夏休みを利用して遊びに来ている。
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そこへ、どこかで過去に会ったような年上の男性=先生(年上なのでそう呼んでいる)。
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私は先生に意欲的に知り合おうとする。雑司が谷の友達の墓参り。
先生は無職。あまりしゃべらない。奥さんに胸のうちを話さない。奥さんは献身的だがそれが悲しい。
「人は誰でも悪人になる」「生前に財産のことだけはキチンと決めておけ」と先生のアドバイス
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2.両親と私
私の父の病気(腎臓)で帰国。
死ぬ前に息子の働き口が決まることを渇望する父。東大を出てすぐ破格の月給を貰えるものだと勘違いしている。
この広い家で父が亡くなり、母一人にしていくことを想像する私。
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父の危篤前後に、働き口の斡旋を手紙で先生に頼んであった返事が来る。ただしこれは長文。文末には自死するような内容が。
手紙の前文も読まず後先も考えずに、三等列車に飛び乗る私。
3.先生の遺書
K/先生 明治30年前後(1900年頃)
私/先生 明治40年前後(1910年頃)
先生は両親が病気(チフス)で20歳の頃に死別。叔父に財産・面倒を全て見てもらうことに。
財産目当てで従姉妹との婚約を迫られる。何度も断ると、両親の残した財産をいつの間にかほとんど取られている。
→先生は、金についてのエゴで大きく人間不信に陥る。
Kは養子だったが、自分の進みたい道を専攻するため養父母にウソの進路を伝えていたが、バレて勘当。学資が無くなる。
東京で同郷だったKの面倒を見るため、先生はすでに下宿していた「奥さん」と「御嬢さん」のいる素人下宿にKを入れる。
kと娘がこっそりKの部屋で一緒。Kへの嫉妬が芽生え始める私。
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房州(千葉県南部)へKと私は二人で旅行。今の安房郡鋸南町。
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御嬢さんについての話題になると、Kの胸ぐらを掴むくらい私は憎しみを感じた。不愉快。
上総の「そこ一里(「そこ」と言われたけど1.8kmもある。。田舎の人の適当さ具合)
房総半島を結局二人でほぼ一回り歩いていった。
小湊。鯛の浦。日蓮の生まれた村。当時の小湊は何もない漁村。日蓮の出生日に鯛が二匹打ち上げられた、という逸話。
その晩、Kと私は口げんか。御嬢さんのことをストレートに言い出せない私は勇気が欠けていた。虚栄心。
東京に帰った時には二人とも真っ黒。
東京に帰って、両国で軍鶏料理を食べる。両国から小石川までは徒歩で帰る。
Kと御嬢さんが一緒にいるのが腹立つ。許せない。が、「出て行ってくれ」とは、自分が無理にKを下宿に呼んだ手前言えない。
言いたいが行動に移せない。身動きの取れない状態。金縛りに似た感じ。
→”身体の悪いときに昼寝などをすると、眼だけ覚めて周囲のものがはっきり見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう”
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翌年初め、Kから御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた。
Kの自白を聞きながら、私=先生は「どうしよう、どうしよう」という念。一種の恐ろしさ。
「なぜ、自分の気持ちを同じタイミングでKに言うことができなかったのか?」という悔い。
その後、図書館でKに声をかけられ、上の話の続き。Kは弱っていて、私にアドバイス(批判)を求めてきた。
私は彼に「精神的に向上心の無いものは馬鹿だ」と意図的に恋の行方をふさぐような一言を言った。
K「僕は馬鹿だ」「もうこの話はやめよう」
私「自分が言い出したんだろ。自分の心でその問題を止められるんならいいけど。大体、さっきの自分の主張をどうする気?」
※正直で強情(行動力のある。言動一致している)なKに、意図的に、Kの矛盾を責める先生。
→先生はそれでKに勝ったような気分。
K「覚悟?覚悟なら無いこともない」
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その後日、仮病を使って私は奥さんと家に二人きりに。
奥さんに「御嬢さんを私にください」と突然のお願い。
奥さん「あんまり急じゃありませんか?」
わたし「急に貰いたいんだ」
奥さん「宜ござんす。差し上げましょう。どうぞ貰って下さい」
わたし「御嬢さんの気持ちを一度確認してから・・・・」
奥さん「本人が不承知のところへ、わたしがあの子を遣る筈がありませんから」
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その後、居づらくなって家から出ると、バッタリ御嬢さんとすれ違う。 わたし「もう病気はなおりました。なおりました。」
と水道橋方面へ。
帰宅してから、何も知らない彼に本当は手を突いて詫りたかった。が、できなかった。
夕食は、いつもの無口なK。嬉しそうな奥さん。どちらの事情も知っている複雑な私。御嬢さんだけはその夜に限って食卓に来ない。
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Kに早く本当のことを言わなければ。でも行動できない。・・・と迷っている間に奥さんがもうKにこの件を伝えてしまっていた!
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Kはその時に「おめでとうございます。」「結婚は何時するのですか」「お祝いをあげたいが私にはお金が無いから・・・・」とだけ言っていた。
二日も経ってもKの私に対する態度は全く変わらなかった。
ただ、私は「おれは策略で勝っても、人間としては負けたのだ」と思う。
Kにそこを突かれて恥をかかされるのは、私の自尊心にとって大きな苦痛だった。
(とにかく、明日どうするか決めよう)
そう思った日の夜、Kは自殺した。
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彼は死んでいた。夜中に声を掛けても返事が無い。机に私宛の遺書。
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中身を確認し、まず自分への恨みつらみが無いことに安心する自分。世間体を気にする。
遺書の内容「自分は薄志弱行で到底行先の望みが無いから自決する」とだけ。
「もっと早く死ぬべきなのに、何故今まで生きていたのだろう」と最後の一行。
読んだ後、ふと襖を見るとそこにほとばしる血潮。
気が動転して自分の部屋をぐるぐる廻る私。現場の恐ろしさとこの後の自分の運命への恐怖。
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明け方まで待って、奥さんを自分の部屋へ。「驚いちゃいけません」「Kは自殺しました」私は手を突いて頭を下げた。
「すみません。私が悪かったのです。あなたにも御嬢さんにも済まない事になりました」とふいに言った。
Kは小さなナイフで頚動脈を切って、一息に死んだ。
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生前、雑司が谷近辺が好きだったKに「そんなに好きなら、死んだらここへ埋めてやろう」と私は約束したことがある。
新聞に載った記事には「父兄から勘当された結果、厭世的な考えを」「気が狂って自殺した」とだけ。
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その後、その家は引越し、私は東大を卒業。そして結婚。(ここまで半年)
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Kの墓参りを同行したい、と妻。何も知らない妻は死んだKに結婚の報告を嬉しそうにしている。(もう二度と墓参りは二人で行かない)と決める。
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妻との新しい生活が始まっても、妻と顔を合わせているうちに、突然Kに脅かされる。
妻の何処にも不足を感じない私は、ただこの一点において彼女を遠ざけたがった。
これが続くと妻もその気持ちに気付き
「あなたは私を嫌っているんでしょう」「何でも私に隠していらっしゃることがあるに違いない」とかいう怨言も。
この際ありのままを妻に打ち明けようと思ったことが何度もある。
妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いない。これを実行する私には打算も利害も関係ない。
”私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印すに忍びなかったから打ち明けなかったのです”
”純白なものに一雫のインクでも容赦なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい”
その時まで、叔父に欺かれた自分は、他人を悪く取るだけあって、世間はどうあれ自分は立派な人間だ、という信念がどこかにあった。
”それがKのために見事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。
人に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。”
酒に意識的に溺れてみようとする。ふと自分が「わざとこんな真似をして己を偽っている愚物」に気付いて醒める。そして沈鬱な反動。
腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間ですら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかった。
理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うと益々悲しかった。
私は寂寞でした。何処からも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよく有りました。
私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。
”こうした会談を段々経過していくうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つべきだという気になります。
自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだという考が起こります。私は仕方がないから、死んだ気で生きていこうと決心しました。”
明治天皇の崩御。殉死という考えが頭に浮かぶ。
乃木大将の殉死のニュース。乃木さんは西南戦争で敵に旗をとられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きてきた。
35年間死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしい。
妻の知らない間に、こっそりこの世から居なくなる。妻から「頓死(急死)した」と思われたいのだ。
(この手紙をしたためた)私の努力は、半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
”私は妻にはこのことを知らせたくない”これが唯一の希望。
”私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい”
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『こころ』について 三好行雄
明治43年(1910)に胃潰瘍が悪化して漱石は人事不省(じんじふせい)の危篤状態に陥る。
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人間の生と死をめぐる認識はいっそう透徹(筋が通っていてすみずみまではっきりしていること)したものとなる
エゴイズムの追求と批判がより徹底した形でなされている
漱石は自筆の広告文で「人間の心を研究するものはこの小説を読め」
父の死ぬ瞬間まで克明に書いたのに、先生からの手紙を受け取って東京にとんぼ返りしてから何も書かれてない。あまりにも不自然。
先生からの手紙を四つ折に畳んで一寸それを懐に差し込む。。。。その手紙、原稿用紙200枚分ありますけど! (両面書き?2in1?)
<自由と独立と己れとに充ちた現代>
先生に対して、漱石の放恣(だらしない。勝手気まま。節度がない)なまでの自己移入。
先生は御嬢さんを占有しようとして、Kを裏切った。この個人的な体験に発する罪の認識
(しかも、先生はそれを妻と共有することさえみずからに許さない)
死んだように生きる自己呵責を選んだ先生。
<明治の精神>に殉死することで、先生は固有の倫理をつらぬいて<自由と自己と己れとに充ちた現代>への批評を獲得した。
「殉死」<明治の精神>
無償
没我性
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お互いは対極にある
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「自由・独立・自己の確立」=明治の精神の終焉
”漱石にとって、乃木の殉死は大正という新しい時代の推移とともに、しだいに重い意味を持ちはじめるという性質のものだったようである”
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